| 食の豆知識 |
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平成16年8月8日更新 夜そば売り 明歴3年(1657)振袖火事は、江戸府内のほぼ6割を焼け野原にしたが、その復興のために大量の労働者が江戸に流入した。 当然、外食需要が急速に高まり市中に煮売り(振り売り)が急増Sっするが、その煮売りの中から、夜中に屋台でそばを売り歩く、夜そば売りも生まれた。 もっとも、最初のころの主力商品は、そばではなくうどんで、貞享3年(1686)の町触には、「饂飩蕎麦切其外何ニ不寄、火を持ち歩き商売仕候儀一切無用ニ可仕候」とある。 幕府は、火事対策として、夜の煮売りを禁止して居たが、禁令を無視して夜中から明け方近くまで売り歩くに売りが多かったようだ。 ただし、夜売りの機関は、陰暦9月9日から3月3日の雛の節句までと限られていたという。 江戸市中の蕎麦屋の数が増えはじめるのが、18世紀半ば以降のことで、夜の麺類の煮売りがそば中心に変わるのは安永(1772〜81)ころとされる。しかし、それよりも早く元文(1736〜41)ころから、夜そば売りが「夜鷹そば」と呼ばれるようになる。 夜鷹とは、夜間に道端で客の袖を引いた街娼のことだ。夜そば売りが夜鷹そばと呼ばれた理由は不明だが、客に夜鷹が多かったからとか、そばの値段が10文が夜鷹の代金と同じだから、あるいは、夜鷹と同様に夜となると現れて商売したからとか諸説がある。売り物は温かいぶっかけ専門だった。 宝暦(1751〜64)ころになると、夜鷹そばに対抗して「風鈴そば」と言う新手の夜そば売りが現れる。風鈴と言う名は、屋台の屋根に風鈴を下げていたからで、この風鈴を調子よく鳴らして客に知らせた。当時の夏の風物詩であった。風鈴売りを真似たものらしいが、本来は夏の響きの風鈴の音を寒い季節に使ったところに新鮮味が合った。そばの値段は、12文である。 風鈴そばは、夜鷹そばと比べて遙に清潔だったたね、たちまち人気になったといわれる。夜鷹そばは、不潔さに付いては、東の夜鷹そば屋でさえ腹が減っても食べなかったという笑い話が残されていほどだ。 その後、夜鷹そばも風鈴をつけ、清潔が売り物のはずだった風鈴そばも不潔になった事から両者の区別がつかなくなり、夜っそば売りの夜鷹そば(風鈴をrrつけている)のなで総称されるようになる。 ちなみに、風鈴そばは、種物(志っぽく)を売り物にした。志っぽくとは言っても、せいぜいチクワか麩を載せただけだったようだが、、どの時期からのことだったは、はっきりしない。しかし文化(1804〜18)ころになると、ねぎ油揚げを載せた南蛮、油揚げがメインの信田、海苔を載せた花巻、そうめんを温めたにゅう麺なども売っいたようだ。 天保・寛永期81830〜54)の記録である。{守貞饅稿」は、「一椀十六文、他食を加えたる者は二四文、三二文、他」と帰している。 雑学辞典より |
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平成16年6月24日更新 そばの食べ方 蕎麦は、「食べ方」が何かと話題になる食べ物である。 言うまでもなく代表的なのは、つゆをどのくらいつけるべきかと言う問題である。 一箸で何本くらい救い上げるべきかとか、猪口はどうする、蒸篭の簾やざるに残った短い蕎麦はどうつまむかといったことも、ごく基本的な蕎麦喰いの作法のひとつとしてよく取りざたされる。 食事のマナーがつき物だが、、普段の食事ではあまりうるさいことはいわない、と言うのが普通だろう。けれども、蕎麦はの場合は違う。 気軽に食べる日常食では在りながら、食べ方がとやかく言われて当然の趣がある。 ところで、そうめん、冷麦の食べ方の作法については、室町時代から細かく決められていた。といっても上流階級の人々の正式な饗応膳での作法であり、一般の人々がどのように食べたかは不明だが、当時の作法は形を変え乍、江戸時代に受け継がれている。 元禄5年(1692)に出た女性のための絵入り教訓書『女重宝記』には、女子のたしなみとして、麺類の食べ方が詳細にのべられている。 素麺くふ事 汁をおきながら一はし二箸素麺を椀よりすくひ入て、さて汁を取り上げくふべし。 その後は汁を手にもちすくひ入、くひてもくるしからず。汁をかへ候はば、はじめいくたびも汁を下におきすくひ入、取り上げくふべし。 饂飩もくひやうおなじ事也、蕎麦切りなど男のように、汁をかけてくふ事有べからず。からみ・くさみなどかならず汁へ入べからず。 これは、実は、そばの食べ方について書かれた最初の文献とされるものだが、通常注目されていつのは、男のように汁をかけて食べてはいけない条である。わざわざ戒めているのは、いちいち汁につけないで、蕎麦に直接汁をかけて食べる風があったということで、これが『ぶっかけ』のはじまりと考えられるからである。 それはさておき、問題は、ここで述べられた蕎麦の食べ方は、あくまで女性の作法だということだろう。 文脈からは、男は、ぶっかけスタイルで蕎麦を食べる野が当たり前というふうに読めるわけで、この時代にはまだ、「そばの作法』はこれといって決まっていなかったとも解釈できる。 江戸がうどんを押しのけて蕎麦の町になるのは、18世紀後半ころからの推定されているが、この時代は、いわゆる江戸っ子が形ずくられた時期である。そうして19世紀に入り、文化文政時代(1804〜30)になると「粋」の美意識が生まれ、料理文化の爛熱のなかでそばも洗練されていく。 とすれば、現在も江戸っ子風の粋なたぐり方とされている蕎麦の食べ方が確立されたのは、およそ200年ほど前の ことだったかもしれない。 麺類雑学辞典より |
| 平成16年6月13日更新 「江戸蕎麦学」楽事 日本蕎麦には、様々な楽しみがある。 蕎麦栽培・手打ち・食べ歩き・薀蓄・・・・・・その各々が昔から句や歌や川柳などで醍醐味ぶりをうたわれている。 中でも盛んなのが薀蓄であり、これが又他の麺類には、見られない特色がある。 蕎麦の産地でもない江戸で「俳諧の道と蕎麦の味は江戸の水によくあう」とまで俳聖・芭蕉に言わせたのもそばが薀蓄を持っていたためであるし、薀蓄こそが、都市文化の花であると思う。 その薀蓄の一つに蕎麦の歴史があり、極めつけが江戸の蕎麦切りの始めである。 この江戸の蕎麦切りの初めについては、蕎麦通の間で京・尊勝院の慈性僧正が残した日記が初見資料としてよく引き合いだされる。 つまり、江戸城における天台宗・・浄土宗論議聴講のために江戸にやってきた。慈性は、城から帰る途中、天台宗仲間の江戸・東光院の詮長法印と近江・薬樹院の久運法印と連れ立って風呂屋に行こうとした。 ところが風呂が混んでいたため,三人は目的を変えて常明寺に立ち寄り、蕎麦切りを馳走になったというのである。1614年2月3日のことだった。 ところが、この3人衆が食したはずの常明寺が未だ何処にあったのか特定されていないのである。 古地図や歴史書などを漁っても載っていない。まさに、邪馬台国ならぬ幻の常明寺というところである。 江戸の東光院は当時、小伝馬上町にあった。又日記には常明寺の僧が一緒の登城したように記してない。 おそらく天台・浄土宗に属する寺でなかったのだろう。 とすれば、常明寺は江戸城と小伝馬町を結ぶ線上野天台・浄土宗以外の寺だったということになるだろう。 時は流れて、明歴の大火(1657年)後東光院は小伝馬町から浅草(現・・西浅草)へ移転した。 そのころの古い地図を見ると、面白いことに東光院は、蕎麦通の間で知られている称往院と誓願寺ならびに塔頭の九品院・西慶院と肩を並べて建つている。 称往院(現・・・世田谷区)の塔頭であった道光庵の「不許蕎麦入境内」の石柱を有する寺であり、九品院(現・・・練馬)は「蕎麦喰い地蔵」を祀る寺として広く知られている。 道光庵の史実は1700年代、蕎麦喰い地蔵の伝承は1800年ごろと、各々年代が違っているが西浅草が江戸蕎麦の聖地だったといえば言いすぎであろうか。 こうした発見もまた「江戸蕎麦学」の楽しみごとの一つである。 ほしひかる・ソバエッセイストより、 |
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| 平成16年6月7日 たぬき たぬきは、きつねとともに、最も大衆的な種物の代表とされているが、かけそば(かけうどん)に揚げた玉を乗せるだけだから、きつねよりも遙に簡便な種物である。 きつねの場合は少なくとも、油揚げを甘く炊くのに手間がかかる。また、天かす利用するのだから、最も材料費のかからない種物ということもできる。 つまり、最も気軽な種物の分けだが、なぜ「たぬき」と呼んだのか、その由来ははっきりせず、いくつかの説がある。 例えば、種らしいものが入っていないことから「たねぬき」となり、それがさらにてんじて「たぬき」になった説。 揚げ玉は天ぷらの揚げかすなのだから、とても種とはいえないということだろう。 また、揚げ玉のこってりとした味となるとその根拠は何かと言う事となる。 そこで浮かぶのは、江戸時代から行われ田狸汁だろう。別名、むじな汁。本来はタヌキの肉を大根、ごぼうなどで煮た味噌味の汁である。 一般に、江戸時代までの日本では肉食は忌避されていたと思われがちだが、獣肉食などご法度の寺院では、タヌキの肉の変わりにこんにゃくを用いたそうで、現在、料理で狸汁といえば、後者をさす。揚げ玉のこってりした味から、どちらの汁の味が連想されているのだろうか。 たぬきが品書きになった時期もはっきりしない。大正時代の大阪で天かすを入れたうどんが「大正うどん」や「ハイカラうどん」のなで売り出されたというから、それが、関東に伝わり、そば台で「たぬき」と呼ばれるようになったのかもしれない。 もっとも、大阪では、「きつねそば」を「たぬき」と呼ぶ伝統があるから、揚げ玉入りのそばが大阪で「たぬき」と呼ばれるはずがなかったわけだ。 京都では、きつねのあんかけが「たぬき」である。 ところが、たかが「たぬき」だが揚げ玉なら何でも言いという訳ではない。もともと天ぷらそば用の天ぷらを揚げたときに出る揚げ玉を使ったせいなのだろうか、東京のそば屋では、海老の香りが移った揚げ玉でなければ、「本物のたぬき」ではないという伝統もあったといわれる。 又、味の面でいえば、使用する小麦粉も無視できない、今、天ぷらの衣には薄力粉を使うが常識になっているが、戦前のそば屋では輸入もののメリケン粉ではなく国産中力粉のうどん粉を使ったはずである。とすれば当然、衣は現在よりもずっとぽってりとした感じだったろう。 このように「たぬき」の由来は、「きつね」が油揚げとキツネ「稲荷信仰」の因縁でほぼ説明されているのと好対照で、それこそ 人を化しているといえるのかもしれない。 麺類・雑学辞典より |
| 平成16年5月31日更新 特別なめん なんと言っても「めん」が大好きです。 蕎麦・うどん・スパゲテイ・ラーメン、一日中「めん」でもいいくらいです。 そんな私ですから、美味しい「めん」を食べる話にはすぐ「賛成ー」と何処得へでも食べに行くのが常となります。 以前勤めていた音楽事務所では食道楽が多く、「大晦日には、神田の藪で年越し蕎麦を食べて浅草寺に初詣をする」 と言うのが年中行事になっていました。 当然私は参加です。 夜の八時頃に藪蕎麦に着くとすでに大勢並んでいます。二時間ほど待って座敷のテーブルに。それからおつまみ、お酒、「こんなに並んでいても絶対急がさないのがすばらしい」などと勝手なことを言って散々盛り上がり最後にそば。 その頃には、初詣に丁度よい時間となります。そうして入ってきたときと同じようにお姉さんの澄んでゆたりとした独特の掛け声に見送られて、浅草寺の参拝客の長い列へ。 今では、蕎麦の味とともに優雅な年越しの思い出となっています。 もう一つその頃の出来事です。 長野の善光寺で「天台宗の声明を本堂で聞く」とい催しを行いました。 善光寺の周りにはお蕎麦やが沢山あります。 例によって「ここに来たらお蕎麦を食べなくちゃ」ちいうこととなり「地元の美味しいところは、タクシーに聞くのが良いんだよ」と食通のスタッフのアドバイスで乗り合わせた、運転手さんのお薦めのお店で早速蕎麦を食べました。 信州の蕎麦は太くてごわごわしたイメージを持っていましたが、細めで喉こしが良くなかなか美味しい店でした。 声明を歌う為に、比叡山延暦寺を始め各地の天台宗の住職が大勢参加してくださいました。 夕方の公演が終わるとある住職が、「知り合いが蕎麦を打ってくれたのでみんなで食べに行くが一緒にどうですか」と誘ってくださいました。 昼も蕎麦を食べたけど、と思いながらも二つ返事だついて行くと、車だ四十分程かかるところにある一般のお宅でした。 大きなざるに補足きれいな蕎麦が盛られています。 打ってくださったのは,年輩のご主人でした。「この人の蕎麦の割合は、九一で本当に美味しいですよ、ほかでは、滅多に味わえない蕎麦ですよ」とおっしゃる党利、風味、こしがあり喉こしがよく美味しくて、美味しくて次から次へざるが空になりました。 とうとう住職の七、八人はギブアップし、それでも「蕎麦は取って置けませんから食べてくださいね」とご主人が運んでくるざるを私一人で最後までたべていたほど美味しいものでした。 いよいよお暇するとき、「こんなに美味しいお蕎麦をご馳走になって私の御礼の気持ちです」と住職が、一斎に般若心経を唱えはじめました。。今まで美味しい美味しい、とにぎやかだった部屋が一瞬にして荘厳な雰囲気に包まれ、家中に響き渡るお経を聞きながら、なんともありがたい気持ちでいっつぱいになりました。 こんな素敵な思いでによって、蕎麦は、私にとっては、特別な「めん」となっています。 望月芳子・料理・菓子研究家著書より |
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| 平成16年4月26日更新 ウドンの恐怖・ウドンの悦び 禅宗の坊さんは、ほぼ百パーセント、ウドンが、好きだある。 禅宗に限らず坊さんが客に来て、何をご馳走しようかと迷ってしまったら、まず、ウドンにしておけば、間違いがない。 ほとんどの坊さんは悦ぶはずである。 うちの祖父は、道場生活が、長かったため、子供の頃の夏の夕食は、毎日ウドンだった。 だから私は、多分そのせいで二十六歳までウドンが嫌いだったが、道場に来てからは、どうしょうもなく好きになった。 道場には、ウドンが好きになる、格別のシステムがあるのである。 もともとウドンじたい、禅寺で発明されたらしい。 ほかにも味噌やがんもどきなど、禅寺から出た食べ物は多い。しかしだからといってすきになるわけではない。 何より、道場打破、食事のとき一切の音を立ててはいけない。 食器を置く音も勿論だが、たくあんも音を出せないために、大抵の雲水は噛まずに咥えたまま食堂から下がり、トイレの裏などで噛む。しかしどうしたわけかウドンだけは、例外で、これは、音を立ててもよい。と言うより、普段無音で食べる反動と言うかストレス解消というか、皆これでもかと言うほど大きな音を立てる。 長年のしつけと習慣で「啜る」という能力さえ退化している欧米人に聞かせたら、おそらくケダモノだと言ってあきれるだろう。 しかし、これだって長年の文化なのだからはじるべきではない。 まあしかし、大きな音を立ててウドンを啜っていると、子供みたい荷楽しくなるのだから、退嬰してると言われても仕方がないかもしれない。 道場でのウドンは、しかしそんな単純にうれしいばかりではない。 まず托鉢の点心でウドンをご馳走してくださる家があるのだが、三人の雲水になんと三十九玉用意してくださる。私が、十玉を食べて苦しがって居たら、先輩が「いざれば三玉」と呟いた。 つまり四つ足になって部屋の中をいざって歩けば、後三玉は入るというのである。 結局私は、ノルマの十三玉を何とか食べ終えることが出来た。 又道場では、月に一度の摂心のたびに、夜の九時半ころにウドンが出る。夕食は夏場だと四時半くらいだから、もうその頃は、ぺこぺこである。だったら手放しにうれしいだろうと思われるかも知れないが、さにあらず。新入りには、並の茶碗などでは、出してくれない。漬物樽とかバケツなどに、およそ五玉分くらいは入れてある。 そのままでは、溢れると言うので割り箸が何本も突き立てられ、時には、典坐さんの悪戯で、トッピングとしてショートケーキが載せられていたこともあった。 それは、もう地獄の苦しみ。 しかしそれなら嫌いに成るかというと、何しろ道場に居ると食べることが無性に楽しいんだから、。苦しくとも楽しいのだから困ってしまう。 やはり極楽は、地獄ttっ戸同じ場所かもしれない。 玄侑宗久(作家・僧侶)著書より |
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| 平成16年4月10日更新 秋新 秋の新蕎麦の略 秋蕎麦は、香り・色・味が優れ、粉に挽いても、貯蔵が良ければ、変質しにくい特徴があります。 そば好きは、秋新を待ちかねて「散れ貸しと思うは、その花ばかり」と構えている。 収穫時期は、北海道は、九月の中旬から、始まり、本州・九州地方と移って十一月中旬頃までのものを云う。 川柳に「新そばせにゃア気張って一袋」とある。 前に安請け合いしたものの、新そば粉を見ると惜しくなるという心理。 食通と知られた酒井抱一は「新そばや、人ふね秋の湊入り」 新そばの掛け札早し鳴子鳥」と吟じている。 また古川柳奈は、「新蕎麦に客めずらしき田舎寺」 「新蕎麦に小判を崩す、人さかり」などがある。 播時期により夏蕎麦もあるが、味も香りも、秋蕎麦が勝る。 酒井抱一は、姫路城主の酒井忠似の弟であったが、若いとき病弱のため、今日の西本願寺派の僧籍に入り、等覚院と号した。 多芸多能。特に画風は、尾形光琳の流れを汲む。 文化6年江戸根岸鶯塚に住み、俳譜を楽しみ趣味人の間では、粋人・通人としていられた。文政11年没。享年68歳 |
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| 平成16年3月30日更新 そば屋と酒 そばは、ブームとともに,そば屋で楽しむ酒が何かと話題に載るようになっている。 しかし,そば屋酒という言葉があるくらいで、昔から,そば屋と酒は縁が深いとされている。 さらに,そば屋では単に「酒」と言わず「ご酒」とか「上酒」と呼ぶ伝統があった。これは、「さけ」という音があまりきれいではないから,とか、「避け」や「裂け」に通じて縁起が悪いため、などという説があるが、真偽のはド歯不明だある。 ちなみに、お酒という言葉がはたんなる裂けの尊敬語ではなく、酒を飲む人(あるいは酒をくれた人)を立てるために丁寧に表現するという意味合いもあるそうだ。もともと古代の酒は、神に供えるもので、そこから神酒(みき,、御酒とも書く)という言葉も生まれて居る。 一方、上酒とは,文字通り、上等の酒とか、よい酒という意味である。 いずれにしろ、ただ酒といわず、御や上をつけたことは、単純にていねいな言葉使いをしたというだけではなく、やはり吟味した酒という意味をこめいたのだと想像されます。そばに冠した「御膳」などと言う言葉とも通っ汁のでは、ないか。 江戸時代末期の風俗を伝える貴重な文献としていられる『守貞饅稿』には、当時のそば屋の品書きが記されている。 それによると、御膳大蒸篭四八文、蕎麦十六文、あんかけうどん十六文、あられ二四文、天ぷら三二文、志っぽく二四文、花まき二四文、玉子とじ三二文、上酒一合が四〇文、である。又、かも南蛮、親子南蛮、小田巻きはいずれも三十六文としている。つまり、並蕎麦、はもちろんのこと、種物よりも酒一合の値段の方が高かったわけだ。 このことからも、当時の『上酒』が、かなり上等な酒だったことがわかる。 江戸時代、江戸は、避けの一大消費地であり、本場の関西から大量に送られていた。 これを下り酒という。 江戸では、下り酒と関東産の酒(地回り)の双方が消費されていたが、圧倒的に評価が高く人気があったのは、下り酒で、中期以降はもっぱら樽廻船で運ばれる灘の酒が高級品とされていた。『守貞饅稿』も灘の酒が、最上とされていた。 したがって、江戸時代後期の蕎麦やの上酒とは、灘の酒だった可能性が高い。 現在も東京の老舗蕎麦やでは、灘の酒を置いているところが、少なくないが、これは、当時からの伝統とも考えられる。 では、江戸の蕎麦やはいつ頃から酒を売るようになったかは、はっきりした時期はわかっていないが、元禄3年(1690)刊の鹿の子はなし』に出てくる浅草の蕎麦やヶ早い方だろう。但し、夜鳴き蕎麦うりのような屋台の蕎麦やでは、酒を売っては行けないこととなっていたという。 尚、文政(1818〜30年)の頃には、蕎麦やを兼業する酒屋も登場居ていた 麺類/雑学辞典yっより |
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蕎麦の食器 平成16年3月11日更新 江戸時代末期、天保・嘉永期(1830〜54年)の風俗記録である「守貞漫稿」は、当時のそば屋についての描写の中で、食器については次ぎのように記している。 江戸は、二八蕎麦にも皿を用いず、外面朱塗り,、内黒なり、底2本ありて,竹簾をしき、その上に蕎麦を盛る。これを盛りと云う。 盛りそばの下略也。 出汁をかけたるを上略して掛けと言う。掛けは,丼鉢に盛る。 天ぷら・志っぽく・あられ・南蛮等,皆鉢に盛る。 四段重ねにした蒸籠とつゆ徳利,猪口が描かれている。蒸籠の最上段には、蓋をするようになっているものの、現在と同じ」供し方だある。 いや、現在も当時と同じ供し方をしているといった方が、正確だろう。 しかし、これをもって、蒸籠が、江戸時代からそばの伝統的な器と断じるのには、少なからず無理があるようだ。 と言うのも、このように簾をしいた蒸籠にそばを盛るようになったのが、江戸時代のどの時期からなのかが、はっきりしないからである 例えば,幕末の『五月雨草子』という随筆によると、文化(1804〜18年)の末頃のその器は、 必ず、磁皿に盛りて出す物なり。蒸籠に盛るは、極略至ることにて、遙後に出来たりと言う。 もちろん、このニ書の記述だけの根拠に断言することは出来ないわけだが、『五月雨草子』を取るとすれば、冷たいそばの器は蒸篭、温かいそば野器は,丼鉢というスタイルが江戸のそば屋に定着したのは『守貞饅稿』の書かれた少し前の文政(1818〜30年)から天保に掛けての時期だったことになる。 『守貞饅稿』の著者、喜田川守貞は、大坂に生まれ、30歳の時(天保11年・1840) に江戸に出た人である。 したがって、仮に蒸篭の普及がその時期だったとしても、守貞の目には至極当然のありように映ったとも考えられるわけだ。 もう少し考証的な視点から書き残してくれればよかったのにと思うが、致し方ない。 それにしても、わずかな期間に江戸中のそば屋に蒸篭が行き渡り、完全に常識化していたというのは驚かされる。 『五月雨草子』の書きぶりから察すると、どうやら、著者は、磁器に盛るのが正式のやり方と言う新年を晩年まで曲げなかったようだが、なぜ蒸篭に盛るのが,『極略したること』なのか、興味をそそられるところである。 尚、そば屋での蒸篭の使用については,安永6年(1777)刊の評判記「富貴地座位」に「せいらう」を名目とすそば屋が、二軒載っているが、詳細は不明。 いずれにしろ、そば屋が蒸篭を器に代用したのは、延宝(1673〜81)頃に流行った蒸しそば切りが、そばを湯とうしする代わりに蒸篭で蒸したことの名残とされている。 麺類雑学辞典 |
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煮込みうどん 平成十六年1月16日更新 あたり前のことだが、煮込みうどんといって、格別伊万里があるわけでは、ありません、要は、うどんを暖かく煮込んだ麺料理と言うことであり、その意味では、鍋焼きうどんや、おじやうどん〔うどんと雑炊を同じ鍋で煮込む)なども、煮込みうどんの一つである。 |
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| ニ八そばの由来 「ニ八そばとは、そば粉八割に小麦粉ニ割で打つたそばと解釈されているようですが、その昔は、一杯十六文だったことから「2×8=16」の語呂合わせで「ニ八そば」と呼んでいた説もあります。 慶応年間(1865〜68)を境に、そばの値段が、20文を越えたため、それ以後は、、そば粉の混合率による「ニ八そば」と言う呼び名が主流となり、そのいわれとなつていると考えられます。 |
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ひな祭りの節句そば |
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食べる健康、そばパワー! おそばは、手軽に美味しく食べられるもっとも身近な健康食です。 |
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だから、旨い、そば・うどん そばとうどんのはじまり |
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素材の雑話 カニの豆知識 冬の味覚の王様、かには種類によつて味が違い、人によつてお気に入りが様々。 |
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平成15年2月更新 「一杯のかけそば」と言う、美談が話題を呼んだことがある。清く貧しく美しい親子が、そばやの店主の差し出した温かな一杯のそばに感動する話。 |
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| 平成15年1月更新 いま、「健康食」の視点から、見直される日本の麺食 今や「健康」は、すべての人々の関心事といっていいだろう。 高齢化や、様々な面で深刻化している環境問題など模、健康への関心を高める契機になつているようだ。 いうまでもなく、人の健康の基本は、「食」である。だれもが、わかっていることだが、 この基本を徹底することはなかなかむずかしい。 美味しい食事、豊かな食事があたり前の今の時代、食事療法の必要だもない限り、健康 第一の食生活は、簡単に実践できることではないかもしれない。 最近は、このような健康志向を背景に多くの健康食品が出回り、第三次健康食品ブームといわれている。 しかし、普段の食生活と言う視点から考えれば、もっと身近なところに改善のヒントを探す必要があるはずである。 そこで、あらためて注目したいのは、蕎麦・うどん・そうめんなどの麺類、つまり麺食だある。 わが国の麺食の歴史は長い。いまのところ、それぞれの麺の発祥についての定説はないようだが、もっとも古いとされるそうめんの起源は、奈良時代と言われる。 又、うどんの起源は、やや遅れるが、それでも鎌倉時代か南北朝時代頃ではないかとされている。 一方、蕎麦(そば切り)の歴史は比較的浅く、最初の文献に登場するのは天正2年(1574年)の記録、信州木曾の「定勝寺文書」である。 しかし、江戸をはじめとする都市部において大衆食として普及したのは、江戸時代中期に 入ってからのことだ。 農山村への普及もほぼ同じ時代と考えられるガ、農山村では当時、そば切りは特別の日や客への振舞うためのご馳走だつた。 いずれにしろ、麺類の普及は、小麦やそばを挽く石臼の普及が前提になる。 したがつて、どの麺も、本当の意味での大衆食になつた野は、、おそらく江戸時代以降のことになるが、少なく見積もっても、優に300年以上の歴史を持つ伝統食ということができる。 近年、日本型食生活が見直される機運が高まってういるが、脂質の過剰摂取のため生活 習慣の原因になりやすい欧米型の食生活にくらべて、米などの穀物を中心とした食素材の 豊富さが、指摘される。とくに、穀物に野菜や魚、牛乳を組み合わせた我が国の食生活は、栄養バランスがよく、世界的な長寿の大きな要因といわれる。 この穀物中心の伝統的食生活の中だ、そば、うどんが大きな役割を担ってきたことはいう迄もない。 日本型食生活への回帰志向は、そば、うどんが「健康食」として見直される機が熟しているということでもある。 麺食のすすめより |
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